ストーリー
今から50年前の出来事だ。クリスマスの日に長野県の鉢伏山に登ろうと計画した。この山は鉢を伏せたような形でなだらかだ。初心者にも易しい山と言われている。
僕は当時、松本市に住んでいた。この市自体が標高400mほどあるので、割合低い山と言っても1929mもある。れっきとした2000m級の山だ。夏には裏山のように何回も登っている。
僕は一人で冬山を体験しようと考えた。大きなおにぎりを2コ作って、背中のザックに水筒や必要なものを詰め込み冬山の装備をして歩き始めた。
天気は快晴で風も穏やかだ。裾野に取りつき徐々に登ってゆく。汗が心地いい。住宅地を抜け、森を通り、林を抜ける、眼下に街並みが見え、かなりの高さに登ってきたことを実感する。
そして8合目まで来た時、天気が急変する。空が曇り、風が出てきた。しばらく歩き続けると雪が降ってきた。その雪はあっという間に吹雪となって僕を襲う。
空腹とのどの渇きを覚え、背中のザックからおにぎりと水の入ったポリタンクを取り出す。ところが両方ともカチンカチンに凍っていて口には入らない。
でも頂上はもうすぐだと自分に言い聞かせて先を急ぐ。頂上付近に到達したところ、2・3日前に降った新雪が行く手を遮る。その深さは腰ぐらいあり、吹き溜まりでは胸まで隠れるありさまだ。雪をかき分け登ってゆくと頂上が見えてきた。
あと一歩だ。しかし、前が見ずらい。その時、前方から登山者が来るのが見えた。こんな吹雪の日に・・・物好きがいるものだとあきれた。登山者はどんどんこちらに向かって歩いてくる。僕より早い。
すれ違いざまに、登山者は僕の顔を見て微笑む。その時、女性だと初めて分かった。振り返ると彼女はいなかった。僕の足跡が吹雪で今にも埋まってしまいそうだ。僕は「死」の恐怖を感じた。
このまま頂上に向かえば帰りの足跡が消え、このホワイトアウトの中では遭難する危険性が高い。僕は戻ることを即断した。彼女を追いかけ早く下山しなければと埋まりつつある足跡を目印に先を急ぐ。
雪が行く手をどんどん遮り、僕はスローモーションのように足を前に運ぶ。陽が落ち、あたりは薄黒くなってくる。無我夢中で下山する、かなりの時間が経ったのか眼下に街の明かりが見えた。
この灯りほど勇気づけてくれるものはない。あたりはもう真っ暗だ。でも慣れた道は暗がりでもなんとか歩ける。そして暫くして自分のアパートにたどり着いた。どっと疲れが出たのか布団に倒れこんで眠り込んでしまった。
空腹で、明け方に目が覚める。薄明りの中で、頂上付近ですれ違った女性のことを思い返す。あの女性は間違いなく僕に微笑んだ。彼女がいなければ途中で下山出来なかったかもしれない。
でも振り返った時にはいなかった。不思議だ。ひょっとしたらホワイトアウトの中で見た幻影なのか、それとも雪女か?
世の中には分からないことが多い。極限状態では脳が自分の意思と反対の行動をとらせることがある。命の危険を感じたもう一人の自分が空の上から全体を見まわし最善策を取らせる。あの時、彼女に遭わなければ下山の決断が出来たかどうか怪しい。
あれは脳が作り出した幻影としておいた方が理にかなっている。何故なら僕は生きて戻ってこれたのだから。それ以降冬山には登っていない。
TATSUTATSU
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