サマリー
2015年公開のオーストラリアSF映画、監督はマイケル&ピーター・スピエリッグ兄弟、主演はイーサン・ホーク(ガタカ、6才のボクが、大人になるまで。)、サラ・スヌークである。
原作はロバート・A・ハイラインの短編小説「輪廻の蛇」が元になっている。「プリデスティネーション」とは運命とか宿命などの意味がある。一人の数奇な運命をたどる女或いは男の物語である。
主人公は時標変界キット(タイムマシン)によって時空を超えることが出来、航時局と呼ばれる秘密の組織に属している。そしてフィズル・ボマー(不完全な爆弾魔)と呼ばれる悪人を追う仕事を与えられる。
彼は女として生まれ、孤児院で育つ、ところが行きずりの男に恋をしたため、妊娠し女の子を出産する。出産時の大量出血のため、子宮と卵巣を摘出される、ところが彼女は両性具有であったため男に生まれ変わる。
彼はフィズル・ボマーを追っていた捜査中に、頭部に大やけどを負い、顔の移植手術を受け別人に生まれ変わる。(イーサン・ホークの顔になる。)
果たしてフィズル・ボマーとは誰なのか、そして爆弾魔を捕まえることが出来るのか、とにかく不思議な物語である。
ストーリー
ストーリーを紹介すると、居酒屋のバーテンダー(イーサン・ホーク)の所にジョン(サラ・スヌーク)と言う男が現れる。ジョンはバーテンダーに向かって昔の話を永遠とする。
彼の話では、自分は昔女だったとのことである。彼は少女時代孤児院で育つ、抜群の頭脳と運動能力を有していることから、宇宙における慰安婦の募集に応募するも落選してしまう。
彼女は孤独な少女時代を過ごすが、大人になった時にある男が現れる。彼と恋愛関係になったジェーン(サラ・スヌーク)は妊娠し女の子を産む、ところが帝王切開で大量の出血により、子宮と卵巣を摘出され、もともと両性具有であったため男に生まれ変わる。
生まれた女の子は何者かにさらわれてしまう。バーテンダーは過去に戻ってある女に合わせてやろうと自分の正体(タイムコップであること)をバラス。
バーテンダーとジョンは過去にジャンプし彼をジェーンに引き合わす、そしてジェーンが愛したのは性転換後の自分つまりジョンであることが分かる。
バーテンダーは自分の後継者にジョンを選んだようである。
ネタバレ
ジョンとジェーンは惹かれあい、恋人関係となるそしてジェーンは妊娠し、女の子を産む。そしてその女の子はさらわれ、孤児院に預けられる。
つまり運命の様に、自分の人生が、自分の尻尾を食べるヘビのようにクルクル回って行く。
ジョンはフィズル・ボマーを追っていた時に、顔に大やけどを負う。そして顔の皮膚を移植し、バーテンダー(イーサン・ホーク)の顔になる。
時空のジャンプを繰り返していると、精神に異常をきたす。バーテンダーは徐々に精神が犯され、なれの果ては
フィズル・ボマーになってしまう。そして若い時代のバーテンダーにフィズル・ボマーは射殺されてしまう。
レビュー
結局、自分自身とセックスをし、子供を産む、その子供は女に成長し自分自身をまた愛するようになる。女から男になったジョンは顔に火傷を負い、皮膚の移植によってバーテンダー(イーサン・ホーク)の顔になる。
その後バーテンダーは時空のジャンプを繰り返し、精神に異常をきたしフィズル・ボマーと言う爆弾魔になってしまう。その爆弾魔も時空を超えてやってきた過去の自分に殺されてしまう。
このループは永遠に続くのか・・・・・・
・・。
この映画は何が言いたいのか・・・・・確かに最後まで観ないとこのトリックは見抜けない。全ての時間や時代は異なるが、一人の自分が時空を超え過去や未来の自分に会う。しかも女から男に性転換することからややこしくなる。
年を取った自分は、過去からタイムマシンに乗ってきた若い自分に殺される、こんな皮肉は無い・・・・・晩年は正しい行いをしましょうね・・・・・・変な教訓だね。
辰々
これ矛盾だらけなんだよな
性転換した自分とSEXしてできた子供が自分という
何を言ってるかわからない状況なんだが
その通り訳がわからない
「鶏が先か卵が先か」ってテーマで
劇中では雄鶏という答えが出てくるんだが
最終的には雄鶏も雌鳥も卵も自分だったって話なんだが
すべてが繋がっているので起点が無い
無から有を生み出す話になってるから話のつじつまが合わない
こんなむちゃくちゃな話をされると最後のボマーの正体なんてどうでもいいよって気持ちになる
これさぁタイムパラドックスですらないと思うけどね
因果律もくそも無い
だって雌鳥も雄鶏も卵も自分でしたって話だからね
ただ自分なりに都合よく考えると
みんな捨てられた、そして捨てたという記憶があるが
最初の捨てられたという部分がオリジナルだけ違う人間に捨てられていたんだとしたらつじつまが合う
(それだと切り離されてないよなw)
そしてそのオリジナルがボマーってことだと面白かったんだけどね
つまりボマーとボマーを殺した人間は違うことで
自分自身が自分自身を殺すために生み出した存在ってはなしならねぇ
そこらへんにパラドックスを感じることができるけど
もうちょっとひねってほしかった
コメントどうも有難う。
おっしゃる通り、この映画には起点がない。
自分の運命が輪の様にグルグルまわっているだけだね。
しかも、自分の運命を自分でコントロールしているようだ。
出来れば外部の人間が彼の運命をコントロールしていたら面白いのにね。
起点は試験管ベビーかなんかでも良かったんじゃない。
それに、過去の自分、現在の自分、未来の自分がまるで全く別人のように描かれている。
実際は、全部つながっているのにね。
それに過去の若い時の自分が年を取った自分を簡単に殺すことが出来るのかな。
これなんか、外部の人間がかかわってもいいのにね。
辰々